“アポなし”で元大統領に会いにゆく――ムヒカさんから学ぶ「足るを知る」という真の豊かさ

【HOPEFULなひと】
「HOPIUSの想い」をもとに、人類に希望を見出し、持続可能で愛ある世界を目指して活動している人たちを、取り上げる企画です。
今回ご紹介するのは、ウルグアイの元大統領、故ホセ・ムヒカさんにインタビューをした日本人アーティストの平井有太(ひらい・ゆうた)さん。ウルグアイへ行き、”アポなし”でムヒカさんとのインタビューを実現させました。平井さんが目指すHOPEFULな世界をお届けします。
「世界一貧しい大統領」と呼ばれた南米・ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカさん(以下、ムヒカさん)が今年・2025年5月13日、89歳で亡くなりました。
ムヒカさんは貧困家庭に育ち、ゲリラ運動のなか軍事政権によって13年間投獄された経験があり、その後も反貧困を掲げて政治活動を続け、2010年から2015年2月までウルグアイの大統領を務めました。
大統領の間も、収入の9割を貧困地域に寄付し、大統領を退任してからも、経済利益優先で豊かさを追い求める社会を批判し続けました。「ペペ」(愛称)と呼ばれ、多くの人に親しまれました。
参考:ドキュメンタリー映画『世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ』予告編 (2分18秒)
そのムヒカさんに、大統領退任後の2015年11月、なんとアポなしで来訪して1時間のインタビューを実現した日本人がいます。原発事故後の福島で土壌や食品などの放射能汚染の測定活動に携わったアーティストの平井有太さんです。
平井さんは各メディアのほか、自著『ビオクラシー 福島に、すでにある』(SEEDS出版、2016年)で、ムヒカさんへのインタビューをレポートしています。それまで、アポなしでは取材をしたことがなかった平井さん。
しかし海外では駐在でもしていない限り、通信網や連絡手段が限られ、本人と会える状況は確定的ではありません。ましてや大統領を退任してからも世界的に注目されているムヒカさんへのアプローチです。平井さんは大使館や国会とコンタクトしつつも、確約がないまま現地に滞在。ギリギリで奇跡的なインタビューが実現しました。
今回、ホセ・ムヒカさんへの追悼の意を込めて、平井さんがムヒカさんに会った当時の様子やムヒカさんとの対話について伺いました。
──今から約1か月前の5月13日にムヒカさんが亡くなられたというニュースが届きました。この訃報を受けて、平井さんはまず率直にどのようにお感じになりましたか。
「ウルグアイから帰ってからも、2015年にムヒカさんとの面会が実現した際に間を取り持ってくれたタルコさんとSNSで繋がっていました。ムヒカさんがメディアに出る時にいつも脇に立つ、坊主頭でサングラス、腕にはオシャレな刺青の入っている人物です。たぶんボディガード兼秘書のような役割の方なんだと思います。
そのタルコさんの投稿で見かけたムヒカさんは、精力的に色々な会に出席していました。スペイン語がわからないので見た印象でしかありませんが、いつも奥さま(以下、ルシアさん)と一緒に、市民との対話を続けていらっしゃいました。そして徐々に、歩くのもおぼつかなそうだな、何だか身長が縮んだ気がするなという様子もずっと見てきました。
ですので、知らず知らずのうちに、自分の心にも覚悟のようなものができていたのかもしれません。89歳ですよね。激動の人生を駆け抜け、本当にご苦労さまでした。大往生だなと思いました」。
──平井さんは日本に帰ってからもずっとムヒカさんの動向をフォローされていたのですね。
お亡くなりになられたのは、お会いしていない私にとっても残念でしたが、それだけに、平井さんがウルグアイまで行ってムヒカさんと直接お会いになったことが、より貴重な出来事となりました。そもそも、平井さんが南米のウルグアイまで直接訪ねて行って、お会いになろうと思った動機について教えてください。
「私がYouTubeで、世界を駆け巡ったムヒカさんの国連でのスピーチ動画を見たのは、福島にまだ住んでいる頃のことでした(2012年6月、ブラジルのリオデジャネイロで開催された『国連持続可能な開発会議(リオ+20)』。スピーチは『世界一貧しい大統領のスピーチ』として感動を与えた)。
平日は福島で農作物や土壌の放射能測定、週末は妻との時間を過ごしに東京に帰る生活で、3.11、東日本大震災と福島原発事故の被災地と都市部で暮らす市民の、気持ちの乖離を日々感じながら暮らしていました。
どうすれば、福島の電気を使ってきた都市部の人間たちにとって、福島での出来事が自分ごとになるのか。そういったことをいつも考えていた時に、私が抱えていた問題意識の根っこと、ムヒカさんのメッセージがばっちりとシンクロしたのでした。
であるならば、誰もが3.11を『自分ごと』にするきっかけとして、一番手っ取り早いのは、ムヒカさんを日本に、そして福島に呼ぶことだ!ムヒカさんなら賛同して来てくださるだろうという、根拠のない確信がありました」。
──東日本大震災と福島原発事故(以下、3.11)が起きて、エネルギーと災害、さらには放射能汚染などの環境問題、経済や人権など、深刻な問題が噴出しました。
それらの問題は非常に近接しているにも関わらず、日常生活の中で具体的にその問題の解決に動き出せない、解決できない―というジレンマを抱えた人は多くいたと思います。そのような中で、エネルギーの大消費地である首都圏と、その生産地であった福島を行き来して、日々考え、対話を求めて南米まで飛んだという平井さんの行動力に驚きます。
南米は遠いところーという印象を持ちます。ネットで調べると飛行機は乗り継ぎを含めて35時間もかかると出てきました。そのモチベーションや具体的にウルグアイまで行った経路などを教えてください。
「私は2012年10月に福島市に移住、2015年の夏に市議会選に出馬して落選し、やっと東京に戻りました。結婚は2010年の4月で、3.11が起きてから比較的すぐに福島との往復を始めてしまったので、まともな夫婦の時間が4、5年間はなかったという記憶があります。二人とも旅が好きなので、妻に『福島でのプロジェクトを終えたら、ずっと行ってみたかった南米に行こう』という提案をしました。そしてその時に、『せっかくの機会だから一緒に、すごく会いたいし、ぜひ話をしてみたい人のところに行ってみよう』と持ちかけました。
飛行機はカタールエアで、まずアルゼンチンから入りました。帰りはカタール経由で、現地に一泊しました」。
──夫婦でムヒカさんに会いに行くとは、ドラマチックですね。さらっとおっしゃっていますが長時間のフライトもお連れ合いがいたから、楽しかったのでは?と想像します。ウルグアイに到着してから、実際にムヒカさんの自宅まで、どうやって到着されたのですか?
「ムヒカさんの家の場所は当初はわからなかったのですが、首都モンテビデオに入り、そこで乗ったタクシーの運転手に『ムヒカさんの家を知ってるか』と聞きました。運転手も1人目、2人目では分からず、3人目ぐらいで『ああ、知ってるよ』という人に当たったというような記憶です」。

──前段からすでにすごい話になっていますが、いよいよここからが本題です。
実際にお会いになって、ムヒカさん自身の雰囲気やたたずまい、住んでいる地域の様子、家の雰囲気などはどのような感じでしたか?貧困地域の住民の救済支援を続ける胆力のようなものは感じましたか?
写真で見るムヒカさんは、優しい目をして穏やかな表情です。その半生の中では、ゲリラ戦士だったこともあるのですが、キラリと鋭さを感じるようなことはありましたか?
また、大統領時代も地方に住んでいたり、ネクタイのことを「役に立たない雑巾」とおっしゃって、身に着けることはないーというエピソードもありました。
「アポイントが取れて家を訪ねるとなった時、『早朝に家に来れば、30分だけ時間をあげよう』という話だったのです。そしてご自宅に着いて驚きました。自宅ではなく、掘っ立て小屋のような、守衛室のような、小さな建物の中に、ちょこんと、笑顔のかわいい好々爺(こうこうや=気のいいおじいさん)が座っていました。
現地で会ったほとんどのウルグアイ人がそうだったように、マテ茶を手に、その姿を拝見できただけで、それまでムヒカさんから連絡がくるのを待っていた時間すべてが報われたような気がしました。

通訳の方と一緒に訪ねたのですが、質問は全部事前に準備して渡していました。いちいち私が喋ると、限られた貴重な時間の半分がなくなってしまうので、なるべく長い時間ムヒカさんに喋っていただくためにも、私はただ前のめりにムヒカさんの目を見続けることに集中していました。
最初は穏やかに質問に答えてくれていたムヒカさんが、途中から机をバンバンたたいたり、声を荒げたりしました。スペイン語は皆目わからないし、たまに一瞬『今、何の話?』と通訳の方に聞いたり、質問の順番は頭に入ってるわけだから、だいたいどこの質問で熱くなられているかは推測できました。それはやはり、福島やエネルギーについて、そして市民ができる社会変容についての部分が大きかったと思います」。
──ムヒカさんは国連のスピーチでも、利益やエネルギーを追い求める消費社会を鋭く指摘し、愛や友人を持つ事の大切さという人類の幸せについて話しました。そのような現状の危機感について、ムヒカさんはどのようにお話しになっていましたか?
「もともと知っていた価値観や教えを忘れてしまっていることの危うさについて、特に語っていらしたと思います。私たちについては過度な西洋化の問題を、ウルグアイにとっては、本来のキリスト教の教えについて話していました。
それは、そのどちらも、経済至上主義なグローバリゼーションの中で、本質でないところに社会が向かってしまっていることへの危惧が語られていました」。
──ムヒカさんは福島やエネルギーのことについてもおっしゃっておられたということですが、そこを具体的にお聞きしたいです。福島原発事故に関するムヒカさんの視点について、平井さんがハッとさせられたことはありましたか。
「私にとっては、大きな気づきはすでに福島での暮らしの中でありましたが、そこを再確認させられた構図だと思います。
それは、『足るを知る』ということ。
私は3.11が起きるまで、日々暮らしている中で使っていた電気が福島から来ているなどとは露ほども知らずにいました。むしろ東京生まれで、溢れるほどの物質や出来事に囲まれて生きていることを当然だと思っていたし、明らかに必要以上を享受するライフスタイルに浸っていたと思います。
これは国連でのスピーチからですが、ムヒカさんの言葉で自分に特に刺さってきたのは『貧しい人とは少ししか持っていない人ではなく、いくら持っていても満足しない人だ』という一言です。これだけシンプルに、現在の世界における市民社会の問題点を言い当てている言葉はなかなかありません。
そして、それを言うだけでなく体現しながら、存在そのものを通じて世界に伝え続けてきたのがムヒカさんです。おかげさまで、私も自分の生き方や価値観を、根底から見直すことになりました」。

──具体的に私たちが解決しなければならないエネルギー問題について(原発から自然エネルギーへ)、何か提言はありましたか。
「はい。『日本には技術があり、化石燃料はなくとも、再生可能エネルギーについては豊富な資源があるのに、リスクの大きな原発にこだわる意味がわかりません』とおっしゃっていました」。
──同感です。先ほどの「足るを知る」と言うことも含めて、私たちの中には、人材やアイデアを含めてさまざまな資源があると思います。
平井さんも、ムヒカさんへのインタビューを含めたご著書『ビオクラシー 福島に、すでにある』の中で、まさに福島の人材、文化や歴史や経験をレポートされています。自らが暮らすその地から豊かさを問うームヒカさんのその姿勢は非常に尊敬できますし、強く共感します。
ムヒカさんはご自身の人生の軌跡をどうとらえておられたのでしょうか。
「その部分については深くは聞きませんでした。しかし所属していたゲリラ組織が、南米大陸の先住民の伝説的なリーダー、トゥパク・アマルの名を冠したトゥパマロスであることや、鼠小僧次郎吉よろしく、銀行の頭取を誘拐しては身代金を貧困層に配っていたという行動を見ると、伝え方が違うだけで、メッセージは常に変わってないんじゃないかと思います。
また、投獄されていた約13年のおかげで謙虚になれたということはおっしゃっていますね」。
──大統領になられてからも、給与の大半を貧しい人たちへ寄付するという活動を続けられました。その姿勢は一貫していましたね。
政治や社会は、利益や権利の不均衡をなんとかして解決しようとしていますが、同時にその不均衡を拡大する動きや政策の無策・悪手も起きており、なかなか改善につながらないーというのが世界が抱える問題でもあると思います。ムヒカさんはご自身の生涯を通じて、貧困という不均衡を解決しようと、時には実力行使で望んでいたことがわかるエピソードですね。
ムヒカさんは2016年に日本にも訪れていましたが、日本に対する提言などはありましたか。
「あの時に、実は日本からすでに声がかかっていて、『来年日本へ行くんだよ』ということはおっしゃっていました。それがよもや、テレビの企画だとは予想していませんでした。
ムヒカさんが生まれ育った地域の近所には日本からの移民がいて、その移民たちの勤勉ぶりに影響を受けたーというのは非常に有名な話かと思います。その働きぶり、人柄が社会にいい影響を与えるので、もっと多くの日本人にウルグアイに住んで欲しいとおっしゃっていました」。
──はるばる遠い日本から平井さんが訪ねてきて対話をしたいーという思いを理解して、時間を取ってくれたムヒカさん。しかも30分の予定が1時間に及んだそうです。平井さんとお会いになったことは、ムヒカさんにとっても印象深い出来事になったのではないでしょうか?
また全体のインタビューを通して、平井さんが特に印象的だった言葉や内容は何でしょうか。そして今、現在の平井さんの人生(生活)に影響を与えていることはありますか?
「最初、約束の30分が経った頃にルシアさんがお迎えに来たんです。『あぁ、もう終わりか』と思ったら、ムヒカさんは一言二言話して、戻ってきてくれました。その時は『先に行け。後から行く』と言っていたと、通訳の方に聞きました。
私は、3.11で人生の方向が大きく変わった人間です。目の前の景色が表向きには同じなのにまったく違う世界になってしまったように感じて、『福島や3.11の経験からこそ日本が、世界における課題解決先進国として社会を牽引していくべきだ、むしろそうしないと、被災地の皆さまの苦労が報われない』と考えて、行動してきました。
しかしムヒカさんとお会いして伺った気候変動のこと、宗教や経済に起因する戦争のことを考えると、今や世界は足を止めたどころか、ますます酷くなっていく一方だと感じます。ムヒカさんも、『まだまだやることがあるのに』と、心を痛めて旅立たれたのではないかと、心配にもなります。

私の本業はアーティストです。
NYの美大を出て絵を描くようなことももちろんしますが、3.11以降は社会そのものをキャンバスに、実際の社会変容そのものを自分の作品と捉えて活動を続けてきました。
ウルグアイは行ってみると、南米大陸ではいつも先駆的に、女性の参政権に代表されるような事象に取り組み、世界では大麻を最初に合法化し、スポーツにおいてはワールドカップにおいて初代の王者という、実は常に社会を更新させてきた国でした。
ムヒカさんはそのキャリアでも前例のない、たぶん後にも出てこない、とびきりドラマチックなリーダーとして、ある意味でとてもウルグアイ的な存在であったような気がします。
私も、別にこれは狙ってそうでなくとも、感性に従った結果、現時点では誰もが新し過ぎてポカンとするような取り組みであっても、後年その重要性に人々が気づき、そしてもしも狙いが当たっていれば賞賛されるような、そんなイメージを抱えながら表現を続けていきたいと思います」。
──最後にムヒカさんが感じていた希望とは。そして、平井さんが感じる希望とは。
「悲しいかな、環境破壊も戦争も加速するばかりに見える現時点の世界に希望はあるのでしょうか。
もしもあるとすれば、それは子どもたちの存在であると思います。ムヒカさんも、子どもたちには特に力を入れて、愛情と支援を注いできたと私なりに理解しています。『(投獄もされていて)ルシアさんとの間に子どもはいないけれども、、』と話されていた記憶があります。

私も今や8歳と4歳の子どもを育てる父親です。
日本の社会が安心して子育てができる社会かというと、まったくそんなことはありません。むしろ出産や子育てを阻害するようなことばかりが目に付きます。
確かに世界的な視野で見れば、環境破壊の根幹には、増え過ぎた人類の人口の課題もあるとも思います。もちろん、言うまでもないことですが、ただ漫然とムヒカさんのようなリーダーの出現を待っていても何も変わりません。
目の前の社会問題に気づいてしまったら、どんな小さなことからでもやってみることが大切ではないでしょうか。
失敗したらそこから学んで、次に活かせばよい。そういった、社会で起きているあらゆることを自分ごととして、自分の立場からできる役割をまっとうする。
それぞれにその行為を積み重ねていき、交換・共有し合いながら少しずつでもよりよい社会をつくっていく。そこに希望があるのではないかと思います。それが、ムヒカさんが最も喜ぶことではないかと考えています」。
平井有太さん:アーティスト/みんなのデータサイト顧問/UPDATER並走者
・1975年東京生、School of Visual Arts卒。96~01年NY在住、2012~15年福島市在住。
・2013年度第33回日本協同組合学会実践賞受賞。単著:『福島』、『ビオクラシー』(共にSEEDS出版/2015、2016)、『虚人と巨人』(辰巳出版、2016)。共著 『農の再生と食の安全』(新日本出版社、2013)
・個展:「From Here to Fame」(HEIGHT原宿、2005)、「ビオクラシー」(高円寺 Garter、2016)
・企画展:「ビオクラシー」(はじまりの美術館、2018)、「AWAKES みんなの目覚め」(アーツ千代田3331、2022):、「Legacy3.11 ~The Power of Art and Creativity from 3.11 Japan:Past, Present and Future」(伊ミラノ Fabbrica del Vapore、2024)
ホセ・ムヒカさん:1935年生まれ。第40代ウルグアイ大統領(2010年から5年間)。
約30年間、反政府組織のメンバーとして活動。13年間投獄され、その間は拷問も受けた。同じ活動家で、のちに副大統領も務めた妻ルシアさんとは獄中結婚。生涯にわたり貧困・経済格差の解消、人権や社会問題の解決に取り組んだ。