戦後80年「戦地で弾をよけて、生きて帰って」──家族の切なる願いが込められた“多眞除地蔵尊”

【HOPEFULなひと】
HOPIUSの想い」をもとに、人類に希望を見出し、持続可能で愛ある世界を目指して活動している人たちを取り上げる企画です。今回ご紹介するのは、福島県二本松市にある「多眞除地蔵尊(たまよけじぞうそん)」を守り、平和と戦没者追悼を続ける鴫原俊郎(しぎはら・としろう)さんと菅原成彌(すがわら・せいや)さんです。長い間、地元でも埋もれていたこの地蔵尊を巡る出来事を掘り起こし、戦争遺品を保存しつつ、地元の人々の戦争体験を聞き取り、語り伝えています。
戦争は多くの苦しみをもたらし、人間の醜さを映し出します。しかし、現代に生きる私たちは、その悲惨な歴史から学び、平和の大切さを改めて心に刻む必要があることを、二人の活動から知ることができます。
戦後80年を迎えようとする今、平和の実現に向け、日常の中で平和をどう育んでいくのか──身近なところにある戦争の痕跡から、皆さんと一緒に考えたいと思います。

福島県二本松市の里山の中腹に、一年に一日だけ地域の人々が集まり、終戦記念日の翌日8月16日に平和祈願・戦没者慰霊祭が執り行われる「多眞除地蔵尊」がある。地域の人々には「多眞除神社(たまよけじんじゃ)」と呼ばれることも。
明治時代に住民の手で建てられ、大正や昭和の戦時下にはその名称から、「爆弾や銃弾がそれて、生きて帰ってきてほしい(=弾よけ)」という願いを込め、多くの人々が全国各地から訪れた。

敗戦後、この地蔵尊に参拝する人はめっきり減り、この地に地蔵尊があることすら知る人もいなくなった。
しかし、「戦争の歴史を多くの人たちに知ってもらい、平和の尊さを考えてほしい」と願う人々によって、地蔵尊は守られてきた。
「戦地で弾をよけられるように」という直接的な願いを込めた地蔵尊が、なぜこの地に建てられたのか。戦後80年を迎え、関係者の話から、その歴史をたどる。

多眞除地蔵尊=福島県二本松市、2025年

地元の遺族会・元会長の男性の思い

「もともとは、村の田んぼから掘り出されたお地蔵様をお祀りしたのが始まりなんです。地域の人たちがみんなで協力してお宮を建てました。そこに“弾除け”の祈りが込められるようになったのは、日清・日露戦争を経てのことでした」。
そう語るのは、現在、地蔵尊と深く関わりながら戦争体験を語り継いでいる鴫原俊郎さん(福島県二本松市出身)だ。

多眞除地蔵尊の宮が建つ里山は、もともと、菅原成彌さん一家が代々所有してきた土地。菅原さんの祖父が地蔵を祀りはじめ、その御利益を知る人が増えて寄付が集まり、宮を建てられた。

多眞除地蔵尊は「多眞除神社」とも=2025年

「はっきりとした地蔵尊の名称の由来、言い伝えや書き物は残っていないのですが、私が祖父に聞いた話だと、最初は、家の守護のため田んぼから出た地蔵を祀ったのが始まり。
この里山はキジが多くいて、そのキジ撃ちをするために人々が山に入っていきました。ところが、どんなに狙ってもキジを仕留められない。まるで鉄砲の弾がキジを避けるようにそれていったといいます。
そこに地蔵様があったことから、弾をよけてくれる『弾よけ様』と呼ばれるようになりました。そこから『多眞除地蔵尊』となったようです」と菅原さんは話す。

この地蔵尊、戦後は長らく人々から忘れられ、眠ったような存在になっていた。ところが、その眠りを覚ます出来事が起きた。それは、今から10年前の戦後70年を迎えて、地元の東和地区遺族会の会長(当時)だった鴫原敏郎さんが「地域や各家庭に多数残る戦争の遺品を収集し、戦争を知る展示会を開催したい」と考えたことだった。

鴫原さんがそう考えるのには理由があった。それは戦争に行った父・長一(ちょういち)さんの経験から、戦争の悲惨さを知ったからだった。長一さんは会津若松の歩兵第29連隊、通称「勇(いさむ)」部隊に所属して戦時中はビルマ方面の作戦に動員された。
「“勇”の部隊は、インパール作戦(※1)の本隊ではなかったんですが、父・長一はインパール作戦に参加しました。インパール作戦は、インドとビルマの3000メートル級の山のジャングルを切り拓いて前進する必要があった。そのためにはジャングルの木を切らないといけず、ノコギリが必要。そしてノコギリが切れなくなると目立て(=研ぐ)が必要になります。
父はノコギリの目立てができる技術があったため、作戦に参加しました。これは補給路を断つ作戦ということで”断作戦”と呼ばれました。父は戦闘には参加しませんでしたが、撤退中、ビルマで亡くなりました」。

戦後、鴫原さんは昭和50年代の初頭、厚生省と遺族会でやっている慰霊友好親善事業に参加してビルマを訪問し、長一さんを追悼した。

(※1)インパール作戦

太平洋戦争末期の1944年に旧日本軍がイギリス領インドのインパール攻略を目指した作戦のこと。補給路の確保失敗と食料・物資の不足により、多くの兵士が飢えや病気、戦闘で命を落とし、日本軍にとって「史上最悪」とも言われる壊滅的な惨敗に終わる。

ペリリュー島での転機

鴫原さんは1976(昭和51)年、遺族会の会員に参加が呼び掛けられたペリリュー島での遺骨収集活動にも参加した。
ペリリュー島とは、太平洋・オセアニアにある現在のパラオ共和国の島。第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、日本本土や沖縄などから人々が移り住んでいた。太平洋戦争中の1944年9月から11月には日本軍とアメリカ軍との3か月にわたる激烈な陸上戦闘がこの島で繰り広げられ、日本兵は2万人以上亡くなる「玉砕」だった。

そうした戦死者を弔おうと参加した鴫原さんは3週間、実際に滞在して、現地で土を掘って発掘作業をした。そして驚いた。

「戦後30年が経っていましたが、まだ多くの遺骨が眠っていました。印鑑、万年筆、時計などの遺品が骨と一緒に土の中から出てきました。残っている頭蓋骨は歯がしっかりしていて、亡くなった人たちが若い人だったということが伝わってきました。
日本に戻ってきて当時の手記を書いた本を読み、“さくら さくら”という最期の電報を知りました。『散る桜、残る桜も散る桜』、つまり人生は無常である、という意味でした。
その部分を読んだとき、戦場に散った人たちの声を残った私たちが伝えなければならないと強く思ったんです」

帰国後、鴫原さんは父の戦歴や遺品を改めて見つめ直し、平和と戦争体験を語り継ぐ活動に踏み出していく。

たくさんの遺品であふれる多眞除地蔵堂

そして自らが東和地区遺族会会長として迎えた戦後70年の年。
鴫原さんは「戦後70年の節目を迎えて、このままでは多くの貴重なものが失われてしまう、そう感じました。
戦争遺品や資料などを集めて、今後も保存していったり、人々の間で語り継いでいったりという契機にしたいと、戦争展を地元で開催できないか、と考えました」。

それにはまず、遺品を集めなければならなかった。

鴫原さんは現役の時、地元の郵便局に勤めていた。仕事柄、地元の人たちとの交流が深く、どこに誰がいるかというのも良く分かっていた。戦争に関する話を聞く機会もあった。地元の歴史に関する探求心も非常に高かったため、最初は地元の寺や神社を訪ね歩いた。
長年交流のあった治陸寺(じろくじ)の住職・和田隆弘さん(67歳で昨年11月に逝去)を訪ねた時のこと。
和田住職が「うちの寺には何も遺品はないよ。ただ、檀家さんで遺品をたくさん持っている人がいる」と話し、「多眞除地蔵尊」と、その所有者である菅原成彌さんのことを教えてくれた。

間もなく、鴫原さんは菅原さんの案内で初めて地蔵尊を訪れた。扉を開くと中には電気もないので奥は真っ暗。日の光で照らされた板壁にはびっしりと出征した若者たちの白黒写真が張りついていた。日が差し込まない建物の中にあったせいか、色は薄れているが表情が見て取れる。虫に食われて穴が空いたりもしていない。出征した若者たちの息遣いが感じられるようだ。

板壁に貼られた出征した若者たちの写真=2023年


「こんなに若い、まさに青春真っただ中の若者がたくさん命を落としたのか」と思うと筆者も胸が苦しくなる。

別の板壁にも写真がびっしり=2023年

菅原さんも「壁に貼ってある写真だけではなくて、糊がはがれて床の下にもたくさんの写真が落ちていました。それだけではなくて、写真とともに収めたとみられる多数の出征旗(※2)、それから毛髪、セミの抜け殻を千羽鶴のように糸に通して天井から吊り下げたものなどが無数にあり、気持ち悪いほどでした」と当時を振り返る。

地蔵尊に残る多数の出征旗=2023年
(※2)出征旗

出征旗(しゅっせいき)とは、太平洋戦争中、兵士として入営・出征する際に武運祈願のために作られた旗。寄せ書きがされているものも多い。

そして戦後70年という契機でもあることから、和田住職にお願いして8月16日に供養の法要をしてもらった。
内部は多数の遺品であふれ、酷い状態だったことから、ある程度は整理をしたが一部は遺し、さらに戦争展で公開された。地蔵尊の入り口には看板を設置し、この地蔵尊のことを説明するようにした。

戦後70年で設置した看板を見る鴫原さん=2023年

地蔵尊の中に、貴重なものとして保管されているものに、参拝者の名簿が帳簿で何冊か遺されていた。
本人だけでなく家族や地域の人たちが、「戦地から無事に帰ってくるように」と願いをこめて筆で出征者の住所や名前を書いている。名簿には地元だけでなく、北海道や東京など遠方からもお参りに来ている人がいた。この名簿のおかげで、日清戦争(1894年・明治27年)、日露戦争(1904年・明治37年)で出征した人々も、この地蔵尊にお参りに来ていたことが分かった。

祀られている地蔵尊=2023年

地元の人たちに聞くと、太平洋戦争の時には、全国各地から多くの人たちが「生きて帰ってくるように」と願をかけに訪れた。住民も少ない里山だったが、地蔵尊に向かう人の姿が見られたという。当時は「お国のために命を捧げる」ことが美徳であった時代。
家族らは「戦争から生きて帰ってくるように」という本心は秘したまま、誰にも告げることはできなかった。それでも、切なる思いから、せめてもと地蔵尊に祈ることしかできなかった人々の姿が目に浮かぶようだ。

武運長久を祈る日章旗=2023年

筆者もこれまで3回、地蔵尊に入ったが、地蔵尊は決して大きくはない。だがそこで考えもつかない体験をした。
私の親の実家がこの地域にあるが、地蔵尊の話を聞いたのは遠い親戚からだった。鴫原さんへの取材が始まり、頼んで中に入れてもらった。さらに鴫原さんからこの名簿を見せてもらった。

すると私の叔父の名前があったのだ。親戚に叔父らが地蔵尊に願掛けにいったのか聞いてみたが詳しいことを知っている人に行き当たれていない。だが自分の家族の歴史に関する出来事の一つに出会えたことは奇遇だった。
もしかしたら、地蔵尊にお参りした父や祖父、家族らの足取りや記録を少しでも知りたい、名簿を見てみたいという遺族はほかにもいるかもしれない。

名簿に見つけた叔父の名

鴫原さんは多眞除地蔵尊に残る遺品を見ながら、「戦争当時は生きて帰ってこいとは言えない時代。それでも、“戦争に勝ってこい”じゃないんですよ。“どんなことがあっても戦地から生きて帰ってきてほしい”っていう、切実な家族の祈りや願いが、地蔵尊に残る写真や、寄せ書きの入った日の丸の旗、遺髪などに込められているんです」と語る。

80年の時間を経てボロボロになった出征旗を見る鴫原さん=2025年

地蔵尊に遺されたその一つひとつは、戦地と故郷を結ぶ絆であり、地域の貴重な歴史そのものだと言っていい。

家々を訪問して戦争の遺品を収集

鴫原さんはさらに、遺品を持っていそうな家々を訪問して、その遺品のエピソード、遺族の想いなどを記録しながら、借り受ける作業を続けた。遺族会の仲間たちからも情報が寄せられ、住民の間でも鴫原さんの活動が話題になった。軍服、鉄兜、日の丸の旗、写真、手紙……地域の人々の家に眠っていたものが次々と集まった。
中には「私たちが自分で持っていてもそのままになってしまう。できたら鴫原さんの方で保管していただいて、今後も多くの人に見てもらう機会があったら活用してほしい」と寄託する人も現れた。

「最初に訪問した時に『うちには何もないよ』と言われた家でも、少し時間が経った後で『実は倉庫からこんなものが出てきたよ』と連絡をもらうこともありました。日の丸の旗が出てきたり、髪の毛を納めた袋が見つかったりするんです。そういうひとつひとつが家族の祈りそのものに感じられました」

そして地元で開催した戦争の遺品展は大成功。
多くの人たちから「初めて見て知ったので貴重なものばかりだ」「これはどこで見つかったんですか」「私の父も軍服を着ていた」「鉄兜をかぶって復員(※3)してきた」など、多くの声が寄せられた。

(※3)復員

復員(ふくいん)とは、戦時に組織された軍隊を平時の体制に戻し、兵士を召集解除して元の市民生活に戻すことを指す。特に第二次世界大戦終結時に、国内外の日本軍の兵士や軍属が本国に帰還した一連の措置を指す言葉として定着しており、兵役を解かれた兵士は「復員兵」と呼ばれる。

遺族会による慰霊祭は終了へ

2025年8月16日。今年も遺族会による慰霊祭が地蔵堂で開催された。
その席上で、遺族会の代表から「会員が高齢化している。今年を最後に遺族会としての慰霊祭は終了したい」ということが発表された。

8月16日に掲げられる祭礼の旗。「神社」とも表記されている=2023年

鴫原さんは「今年は戦後80年。私が資料を収集し始めてから10年が経ちましたが、始めたころに比べて現在は、戦争を知る人が激減しています。だからこそ、多眞除地蔵の存在や、遺品や証言を残すことがますます必要になっているんです。

この神社に込められた願いを、私は次の世代に伝えたい。
戦争の悲惨さを繰り返さないために。だから菅原さんと2人きりでも、私たちができるかぎり、8月16日の慰霊は続けていく」と語った。隣の菅原さんも大きくうなずいた。

鴫原さん(右)と菅原さん(左)=2025年

多眞除地蔵尊は地域の人たちの信仰の場にとどまらず、地域共同体の象徴であり、そして何より平和を願う人々の記憶をとどめる場になっている。地域に埋もれつつある戦争体験、そして平和への願い。
戦後80年を迎え、尊い平和を実現していくためにも、戦争の歴史を伝える責任が私たち一人ひとりに課せられている。

地蔵尊入り口の看板の銘文 ※表記はママ

「玉除地蔵尊」
所在地 二本松市太田東ノ内 番地


玉を除くとされたお地蔵尊、日清(明治27年)、日露(明治30年)、支那事変(昭和12年)から大東亜戦争(昭和16年から20年)に出征戦地に赴いた兵士の生還を願い県内外からおおくの肉親がこの地を訪れた。
お堂は拝殿、本殿の二つの棟からなり、本殿は昭和九年に改築され現在に至っている。
 昭和十二年より木幡山治陸寺の来山により例大祭が行われていたが終戦以降休止していた。平成に入り、福島市在住の菅原成彌氏(所有者)が祖先の意志を継ぎ戦没された方方の追善供養と平和祈願をこの地で行っている。
戦後七十年の年東和遺族連絡協議会の主催「東和戦没者の遺品展」において、この玉除地蔵尊に寄せられた出征旗などを展示した。
 私たち遺族は世界の恒久平和を主眼としており、多くの方に健康健全な家庭・平和への思いの場となることを願い、此の度地蔵尊の祀られているこの地を整備した。

「平和祈願玉除地蔵尊例大祭」8月16日  曜日午前十時
⚫️この地蔵尊は多真除神社とも呼称されている

設置者 東和遺族連絡協議会
(平成二十八年十月)


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