東日本大震災から15年、福島の「今」を体感する2日間、ホープスタディツアーを開催

2011年3月11日に起きた東日本大震災。
東京・日本橋に勤めていた私は帰宅困難者となり、5時間ほど歩いて友人の家にたどり着きました。その夜、テレビに映し出された津波の被害。原発事故、そして放射能という目に見えない脅威に、日本中が震撼しました。
首都圏では計画停電が行われ、街が真っ暗に。これだけの電気に囲まれて生きていたのかと、はじめて実感したことも覚えています。

それから15年。あのときの危機と向き合う時間は、私たちの日常から確実に減っています。

一方で、気候変動による災害や戦争・核の脅威、パンデミックなど、世界のリスクはむしろ増えています。
「命の大切さ」や「この日常は何によって成り立っているのか」という問いも、いつの間にか遠のいてしまいました。


そんな中、私たちは「HOPEを届けるメディア」として活動を始めました。
半年後の報告会で出た一言——「記事を読むだけでなく、“体験できる場”があったらいい」

その言葉をきっかけに、読むだけでなく、現場で感じ、共有する場をつくろうと企画が動き出しました。

そして2026年3月28日・29日、初の「ホープ・スタディツアー」を福島で開催。浪江町や福島市を訪れ、語り部の話を聞き、現場に立ち、それぞれが感じたことを持ち寄りました。

15年前の記憶を呼び起こしながら、自分たちがこれからどんな社会を描くのかを考える——そんな2日間となりました。
この旅で見たこと、感じたことをお届けします。

1日目) 請戸小学校(震災遺構)から東日本大震災・原子力災害伝承館まで

左)福島駅西口のももりんの前に集合。 右)マイクロバスで移動です

福島駅西口に集合。
待ち合わせポイントは福島市のゆるきゃら「ももりんウォーター」前。誰一人遅れることなく予定時間通りに集合しました。そして定刻通り、マイクロバスに乗り込んで、いざ出発。
ホピアス共同代表の柳澤芙美(やなぎさわ・ふみ)から、主催者あいさつと本スタディツアーの目的を共有。参加者の皆さんによる自己紹介などがあり、車中はすぐに和やかな空気に包まれました。

マイクロバスの中でマイクを回し、皆さんに自己紹介をしてもらいました。福島に縁のある人もない人も、いろんな想いで参加されている皆さん。

最初の目的地、浪江町の請戸小学校へ向かう道中、ホピアス記者でジャーナリストの藍原寛子(あいはら・ひろこ)が震災当時と現在の状況、その変化について情報共有しました。
途中、東北中央自動車道沿いの山裾に広大なソーラーパネルが広がりました。原発事故後、原発はもういらないという県民の意思が盛り上がり、その代替として導入された再生エネルギーである太陽光。その一方で、「光害」という新たな課題も生まれていました。

東北中央自動車道沿いの山裾に広がるソーラーパネル

「代替」ではなく、そもそも私たちがエネルギーとどう向き合うのか?現在の大量生産、大量消費のままでいいのか?
そんな私たちの生き方を問い直す必要があるーという感覚が刻まれます。

請戸小学校(震災遺構)

浪江町の請戸(うけど)海岸にほど近く、東日本大震災直後に巨大な津波の被害を受けた請戸小学校。津波で被害に遭った校舎は震災遺構として保存され、一般公開されています。当時、学校に居た生徒全員が無事に避難ができた「奇跡の学校」として知られています。

震災遺構 請戸小学校 https://namie-ukedo.com/

その校舎を請戸小学校ガイドの武田さんの案内で見て回ります。
2011年3月11日14時46分、震度6強の地震が発生。
地震の45分後、15時33分頃に津波が到達。最も高いなみは約15.5mに達し、校舎周辺の家屋は壊滅的な被害を受けました。

津波の威力で曲がった蛇口
建物の間に挟まった流木
津波が到達した時間で時計が止まっている
津波の痕跡が残っている校舎を見学する

当時のまま残された空間が、被害の大きさを物語っていました。

この小学校は「奇跡の小学校」と呼ばれています。地震発生からわずか8分後、全員で1.5km先の大平山へ避難し、生徒・教員全員が無事でした。

震災前のハザードマップでは、津波浸水高を6.4mと想定しており、小学校は浸水想定区域外でしたが、実際はそれを大きく超えました。
また、1960年のチリ地震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害が発生しましたが、請戸では津波が発生しなかったこともあり、「請戸は津波がこない」と信じ、避難が遅れた住民がいたといいます。
そんな中、なぜ請戸小学校は大平山に避難をすることを、校長先生がわずか数分で判断し、全員で一斉に逃げることができたのでしょうか?

先生と児童の避難経路を説明する武田さん

ガイドの武田さんが澄んだ声で説明してくれます。

武田さん 実は地震の数ヶ月前に、ある保護者の方から、“地震だけじゃなくて、津波も想定した訓練をした方がいいんじゃないか”という声がありました。それで、教頭が事前に避難経路を確認し、「何かあったら大平山へ」という意識が教職員全員に共有されていたんですね。

避難中、大平山の入口を探しているときに、“そのルートは混乱している”という情報が入って、先生たちが迷った場面があったそうです。そのとき、野球部の生徒が練習中に使ったことのある別の入口を知っていて、“こっちからも山に入れるよ!”と声をあげて、より手前の獣道から山に入った。先生たちは、その言葉を信じて、ルートを変えたんです。
この出来事も、無事に避難できたことに繋がりました。

そういう一つひとつの判断と連携があって、在校している生徒全員が避難できました。


請戸小学校は、全校生徒で食事をするような、顔と名前が一致する関係性がありました。
さらに、奇跡的に偶然通りかかったトラックの運転手が、全員を避難所まで運んでくれたそうです。
一連の出来事から浮かび上がるのは、「信頼」「自律」「連帯」。 そして、非常時にこそ日常の関係性が問われるという現実でした。

学校内の掲示板にはこう書いてあります。

福島県浪江町は、地震・津波・原発事故を伴う甚大な被害を受けました。 請戸地区で唯一残ったこの請戸小学校は、生徒93名全員が無事避難することができました。その勇気ある行動と決断力から、私達は多くのことを学ぶ必要があると強く感じます。 大切な人を守り自分自身を守るため『私達はどのような行動をすべきか』一緒に考えましょう。

真剣に武田さんのお話しを聞いている参加者の皆さん

原発の風景

次の目的地は「道の駅なみえ」です。その途中で、請戸漁港の橋の上から東京電力福島第一原子力発電所を見ました。

距離は約6キロ。海岸沿いに大きな煙突があり、高いクレーンが作業をしています。この風景は、よくテレビで放送されています。私たちのマイクロバスと原発の間に、請戸の海が広がっていました。

道の駅なみえ、ご当地グルメの「浪江焼きそば」

9頭の馬の絵と「何事も馬九行く」と書かれたなみえ焼そばの大堀相馬焼の皿

次に向かったのは道の駅「なみえ」。ここで昼食タイムです。
予約しておいた会議室で、「浪江焼きそば」としらす丼のセットをみんなでいただきました。焼きそばが盛られた皿は、地元の大堀相馬焼で、くすんだ緑色に日々が入った特徴ある焼き物。

皿には大堀相馬焼の特徴でもある「馬」九頭がデザインされ、「何事も馬九行く(うまくいく)」という文字。
歴史的に地元の人々の生活や産業を支えた「馬」が私たちの訪問を歓迎しているようです。
こんなお皿のデザインに加え、お茶やお水もご用意いただき、道の駅の皆様のホスピタリティに感激しました。
ご当地料理にお腹も満たされ、少し気持ちが落ち着いて皆さん会話が弾みました。

相馬焼の絵付け体験

栖鳳窯(せいほうがま)の窯元・山田正博(まさひろ)さん

次は、道の駅なみえの隣にある「なみえの技・なりわい館」での相馬焼の絵付け体験です。 相馬焼を教えてくださるのは大堀相馬焼の窯元の一人、栖鳳窯(せいほうがま)の窯元・山田正博(まさひろ)さんです。すでに、絵付け用のコーヒーカップと、墨が入った小皿が一人ひとりの席に準備され、私たちを待っていてくれました。

山田さんがテンポよく、軽快に絵付けの方法を教えてくれました。
筆の運び方、墨のつけ方、サンプルも見せていただき、ワクワク感が高まります。参加者の中には 何を描こうかとじっくり悩む人もいれば、すぐに筆を走らせる人もいます。

周りを見渡すと、それぞれが思い思いのモチーフを描いています。
好きなものを丁寧に描く方もいれば、インスピレーションのままに自由に表現している方もいて、その違いもとても印象的でした。

私たちが絵付けをしている間、山田さんから大堀相馬焼の現在について、ご説明がありました。
この大堀相馬焼も、震災から復興するまでには長い年月がかかったそうです。震災で避難して窯をたたみ、やむなく制作をやめてしまった窯元もあったといいます。さらに、原料となる土も汚染されたため、数年間は相馬焼をつくること自体が困難な状況が続いたそうです。

なりわい館に並ぶ相馬焼はどれも美しく、思わず小皿と急須を購入しました。やわらかな緑色がとても印象的で、手に取るとその魅力がより伝わってきます。

私たちが絵付けをしたコーヒーカップは、山田さんの窯で焼かれて完成し、それぞれの自宅に送られることになっています。到着が楽しみです。

東日本大震災・原子力災害伝承館

入り口にある津波で押し潰された消防車、奥にはかつて町内に掲げられていた原子力推進の標語文字パネル(レプリカ)「原子力豊かな社会とまちづくり」 (1991年、双葉町・役場前)

1日目のクライマックスは「東日本大震災・原子力災害伝承館」です。
ここでは、それぞれが自分のペースで展示を見学しました。

最初の導入映像では、福島出身の故・西田敏行さんがナレーションを務めています。
「復興は、残念ながら、まだまだ道半ば」
「廃炉作業はまだまだ続いて、私が生きてるうちに見届けられっかどうか。無理かもしれねえな…」。

その言葉が、静かに、しかし深く胸に刺さりました。

福島出身の故・西田敏行さんは福島に思いを寄せ続けた

映像では、地震発生から原子力発電所のメルトダウン、そして爆発に至るまでの様子が克明に映し出されます。
まるで映画のような、非現実的な光景。しかしそれは紛れもなく現実に起きた出来事です。
懸命に消火活動を行う消防隊や自衛隊の姿も強く印象に残ります。

そして、その映像の中で起きていた出来事は、そのまま人々の現実へとつながっていきます。

福島では、原発事故の発生直後から避難が始まりました。わずか数日のうちに、多くの人が住み慣れた場所を離れることを余儀なくされたのです。しかし、その避難先は、風向きの影響で放射能が流れ込み、結果として高濃度に蓄積された地域でした。この事実は、後に大きな問題として明らかになります。
「SPEEDI(スピーディ)(※)」と呼ばれる、風向きから放射能の拡散を予測できるシステムも存在していました。

(※)SPEEDI(スピーディ)緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム

原子力発電所から大量の放射性物質が放出やそのおそれがある緊急事態において、周辺環境における放射性物質の大気中濃度及び被ばく線量等の環境への影響を、放射源の情報や気象条件及び地形データを基に予測し、地図上にその範囲を示すシステムです。

しかし、その時点で放射能が流れているエリアは把握されていたにもかかわらず、国や東京電力はその情報を公表しませんでした。理由は、「国民のパニックを避けるため」。

その事実を知ったとき、請戸小学校で感じた“信頼”とのあまりのギャップに、強い衝撃を受けました。

さらに驚いたのは、その後、このシステム自体が活用されなくなったという判断です。
正確で高額な装置が使われなくなるという事実にも、複雑な思いを抱きました。

そうした「見えない判断」や「価値の揺らぎ」は、展示物の中にも象徴的に表れていました。
展示の中で、参加者の方が注目していたものがありました。請戸小学校から流されてきた、ランドセルと下敷きです。

参加者が東日本大震災・原子力災害伝承館に問い合わせて写真を送ってもらった

ランドセルの中に入っていた下敷きには、原発を航空写真で撮影した画像と文字が印刷されていました。
事故以前、この地域では原発によって雇用が生まれ、住民はその恩恵を受けていました。
そのため、こうした下敷きが特別な違和感もなく子どもたちに配られ、日常の中で使われていたのです。

しかし原発は、一夜にしてまったく逆の象徴へと変わりました。その姿は、終戦後に教科書が黒塗りされ、信じていた価値が覆された時代の子どもたちと重なるようにも感じられました。

また屋外には、除去土壌が入った大きな黒い袋が積み上げられていました。
原発事故の象徴ともいえる光景です。震災から15年が経った今でも、一部はそのまま残されています。震災後しばらくは、こうした袋が山々の中に延々と並ぶ、異様な光景が広がっていたといいます。

帰還困難区域には、まだ一部、除去土壌が入った大きな黒い袋が積み上げられている(2026年2月)

放射能に汚染された土壌を除去した総量は、約1,400万立方メートル。東京ドーム約11杯分に相当します。その処分をめぐっては、国や福島県、自治体と地域住民との間で何度も協議と説明が重ねられ、最終的に大熊町と双葉町が苦渋の決断として中間貯蔵施設の受け入れを決めました。2015年3月以降、除去土壌の搬入が進められ、帰還困難区域のものを除き、2022年3月までにおおむね搬入が完了しています。

──すべての展示を見終え、展示室を出ると、壁一面に震災にまつわる写真が並んでいました。生き別れていた孫と再会したおばあちゃんの笑顔。一方で、妻と母を亡くした男性の慟哭。瓦礫の上で子どもを探し続ける母親の、空を見つめる表情。

その一枚一枚に目が釘付けになります。日常が崩れること。そして、大切な家族を失うこと。参加者の皆さんも思い思いに写真を見つめていました。

1日目の体験は、想像をはるかに超える重さでした。知っているつもりだったことが、まったく違う解像度で迫ってきました。これが「体験する」ということなのだと感じた一日でした。

次ページ>>
2日目)おたがいさまのまち福島から学ぶ人が起点のまちづくり

送信中です

×

※コメントは最大500文字、3回まで送信できます

送信中です送信しました!
1 2
大切な人に希望をシェア

Translation feature does not work on iOS Safari.