“いま”を超え、認知をひらく──哲学者・柳澤田実さんが語る、宗教と人類のHOPEFULな関係ー

【HOPEFULなひと】
HOPIUSでは、「人類の希望の未来を照らす」という想いのもと、さまざまな分野で“希望の兆し”を生み出す人たちに光を当てる企画「HOPEFULなひと」をお届けしています。
今回ご紹介するのは、哲学・キリスト教思想を専門とし、現代社会と宗教の関係を問い続けてきた柳澤田実(やなぎさわ・たみ)さんです。

初めてお目にかかったのは、あるトークイベントでのこと。
宗教について語るその言葉は、抽象的な空想ではなく、現実を生きる私たちに根差した“機能”としての提案でした。
「宗教は、“再びつなぐ”ものとして機能してきました」そう語る柳澤さんの言葉に、宗教の本来持っている“つながりの力”を感じました。

分断、孤独、合理主義の行き過ぎ──。

いま、世界はかつてないほど“精神の枠組み”を拠りどころとして必要としているのかもしれません。若者たちが再び宗教に惹かれはじめ、テクノロジーの先端にいる人々さえも“神聖さ”を求めている今、宗教は希望になりうるのでしょうか?
宗教(religion)の語源は、ラテン語の「再びつなぐ(re-ligio)」──
この言葉を手がかりに、私たちが未来を見つめるヒントを、柳澤さんの言葉から紐解いていきます。

混沌の時代と宗教の現在地

ーーお話で印象的だったのは、宗教をとても“実際的な機能”として語られていたことです。抽象ではなく、今を生きる私たちにとって宗教がどう働きうるのか──そんな視点に目を開かれました。宗教は人々によってどのように捉えられてきたのでしょうか。そして柳澤さんはどのように捉えておられるのでしょうか。

「歴史的に考えると、18世紀に人間の理性や合理性を重視する啓蒙思想が登場し、いわゆる近代の基盤ができました。その後わずか百年足らずで、理性ではなく個人の感情や主観を重視するロマン主義が起こります。理性や合理性を重視する近代化の波のなかで、人々が地縁血縁を離れて都市に集まり、伝統的な宗教は衰退して、社会は世俗化し、産業化が進みます。ロマン主義はそうした共同体の衰退や加速化した産業化に対する反動として出現します。

より大きな世界、宇宙と「つながりたい」という願望がロマン主義の特徴であり、おそらく「つながり」への渇望が時代の要請として表れたのだと思います。

この流れのなかでその後の自己啓発や精神世界に重きを置くニューエイジや、スピリチュアルの源流である神智学やニューソートといった新しい宗教潮流が生まれ、また米国では、キリスト教の信仰復興運動が起きます。この “宗教回帰”は、ロマン主義的傾向として19世紀から現在に至るまで、繰り返し出現してきました。

宗教は人間の共同体が拡大する中で、つながりを形成する主要な文化的装置として機能してきました。改めて考えると不思議な気もしますが、世界中で宗教がない人間社会は存在しません。

ですので、近代合理主義の流れのなかで、人々が“個人”として意識されるようになり、中間的な共同体──地域や国、さらには家族への帰属感が薄れてくると、「つながり」を求めて宗教的なものに惹かれていくのは、ある意味で“必然的”な動きのように思います。」

ーー他に、宗教が果たす機能はありますか?

関西学院大学の神学部内にある小さなチャペル。午後の柔らかい光が差し込む。

「キリスト教などの伝統的な宗教に関して言えば、「神」という存在を想定することで“自分”を客観視する超越的な視点を持てるようになります。
このような「神」の存在は精神分析の文脈では「超自我」と言われますが、要するに自分を律してくれる視点だと言えると思います。
「神」をどのようにイメージするかは、それを信じる人の心理に大きな影響を与えるようですが、キリスト教では「裁く神」と同時に「愛する神」を想定することで、キリスト教文化圏の人たちの深い内省の場を形成しました。
つまり「神」は信者にとって良い意味での自己愛を満たしてくれて、自分の対話の相手になり、他者に目を開かせてくれる存在になっています。」

ーーちなみにコロナ禍以降は、他者とリアルに関わる機会が減ったこともあり、偏りのある“自己愛”というか、自我のようなものが強くなったように思います。自分が正しいと思い込み、自分と異なる意見を“間違い”とみなして拒絶・批判してしまう。他者を許容する力が弱まっているようにも感じます。

「そうですね。他者との直接の接触が減り、スクリーンを見ながら自分だけに向き合う時間が増え、SNS上で言葉だけが飛び交うなかで、不必要な対立が増えているように見えます。こうした状況で、自分について自家中毒的(内向きな思考の循環で自滅的になること)にしか考えられなくなるのは、自然なことだと思います。

自分について考えるためにも、何らかの枠組みが必要だということがあると思います。伝統的な宗教は、“自己”に向き合い“他者”に開くための“枠組み(フレーム)”を提供してきました。

たとえば、キリスト教であれば『神を愛し、隣人を自分のように愛せよ』という原則があり、自己愛と他者愛が結びつくというモデルが提示されています。

仏教であれば、“四法印”(しほういん)とも呼ばれる教えの中にある、諸法無我(しょほうむが:独立した実体はなく、すべては関係の中にある)という考え方が、自分自身を他の存在との関係性のなかで見つめ直す視座を与えてくれます。

共通の世界観や価値観が喪失された現代人の状況をリオタール(※1)が「大きな物語の喪失」と名づけすでに数十年経っているわけですが、物事を理解するための枠組みを提供する “共通の物語”は現在ますます失われています
その結果、全てを自分で判断しなければならないわけですが、その認知的負荷は大きいと思います。
多くの人がSNSやネット上の意見に自分が考える枠組みを求めてアクセスしていると思いますが、かえって不安や被害者意識を増幅させているように見えます。

(※1)ジャン=フランソワ・リオタール(1924–1998)フランスの哲学者で、ポストモダン思想の代表的存在とされる人物。「大きな物語の喪失」とは、彼の代表作『ポスト・モダンの条件』(1979年)で提唱された概念で、かつて近代社会を支えていた「人類の進歩」や「理性による真理の解明」などの包括的な価値観(=大きな物語)が、現代では信頼を失い、多様で断片的な価値観が並列する社会になったという考えを指します。

若者と宗教回帰の背景

キリスト教において「讃美歌を歌うこと」は、教会の礼拝において重要な儀式のひとつ。

ーー実際に「つながり」を宗教に求める人々が現れている事例として、米・英で若者の宗教回帰が一部で起きていると伺いました。その背景について教えてください。

「そうですね。大前提として宗教離れ、世俗化が進んでいて、そのなかで一定数の人が回帰しているというのが正確な状況理解だと思います。イギリスでは、神を信じる若者の割合が22%から45%に増加したという調査結果があります。アメリカでも特に男性のほうに同様の傾向を示す調査結果が出ています。

イギリス国教会から、より伝統があり儀式的なカトリックに改宗する若者の増加が報告された記事もあります。
カトリックには、今も“儀礼性”が色濃く残っていて、そこに惹かれているようです。
プロテスタントは聖書のみに立ち返って、儀礼性を弱め、言葉による説教中心の礼拝を行いますが、若い人の一部は、言葉による説教よりも時間をかけて行う儀礼に惹かれているようです。

“神聖なもの”に触れたいという願いもあるのかもしれません。ネットでなんでも即座にアクセスできてしまう現代だからこそ、“すぐにはアクセスできない何か”に惹かれる。時間をかけて関わる対象──心理学の言葉でいえば“コミットメント”の対象が、求められているのだと思います。

いわゆる“推し活”も、ある意味では同じ構造かもしれません。なんでも交換可能で等価になりやすい社会において、“何か特別なものに時間とお金を費やすこと”自体が贅沢で価値あるものになっているように思います。

テック業界と宗教の接点

シリコンバレーにはテック系スタートアップが集う。

ーー柳澤さんは先日シリコンバレーを訪問された際、現地の教会でちょっとした変化を感じられたと伺いました。どのような変化だったのでしょうか?また、“宗教を実用的に捉える”という視点についてもお考えをお聞かせください。

「リバタリアンが多いテック業界には、“個人の自由を最大限に追求するべき”という価値観が根底にあります。それが悪いというわけではなく、その精神がイノベーションを生んできたのは間違いがないと思います。
また東海岸のWASP(White(白人) Anglo-Saxon(アングロサクソン) Protestant(プロテスタント)の略)的なエリートへの反抗だった西海岸のテック業界の人たちは、無神論かニューエイジっぽいスピリチュアルを好むことが多かったわけです。

興味深いのは、そうした人々が自分の「金、権力、快楽」を追求するだけの生き方には限界があると感じはじめていることです。テック系の人たちが集まる教会の牧師によると、コロナ禍がきっかけになったとのことでした。

キリスト教に回帰するテック系の人たちに対して特に影響が大きいのが、ピーター・ティール(※2)の存在です。彼のようなテック業界で一目を置かれるインフルエンサーがキリスト教への回帰を熱心に語りはじめていて、注目を集めつつあります。

米国のキリスト教というとトランプ支持者のいわゆるキリスト教保守が注目されることが多いですが、シリコンバレーでテック系が通う教会は、より中道的な印象です。

その教会の雰囲気はとてもカジュアルですが、牧師が『私たちは“保守的(conservative)”』と明言していたのが印象的でした。私が知る限りこの教会には政治色はなく、自分たちの保守性を信徒に押し付けることはせず、牧師は、信徒たちの意見が分かれる時にはディスカッションするようにしていると言っていました。

彼らの言う“保守的”という言葉は、いわゆる政治的右派という意味ではなく、“人が生きるうえでスタンダードにすべき価値観を、もう一度取り戻したい”という意味に聞こえました。

現代の社会でテクノロジーが人々の生活にとって大きな意味を持っているのは間違いありません。この業界の人々が、エゴイズムや拝金主義を超えて、“他者への暴力をどう減らすか”という問いに向き合いはじめているのは、間違いなく良いことだと思います。軍事産業に務める人も教会では中心的な役割を果たしています。

CEOから低賃金の技術者まで通うこの教会では、所得格差も相当大きいと牧師が教えてくれたのですが異なるバックグラウンドや属性を持った人たちが“個人主義を超えた連帯”に向かって努力しているように見えました。左右の分断が目立つ米国でもこうした動きがあることに希望を見出したいです。」

(※2)ピーター・ティール:アメリカの起業家・投資家・思想家。PayPal共同創業者のひとりであり、Facebook(現Meta)やPalantir、OpenAIなど数多くの企業への初期投資でも知られる。テック業界における“リバタリアン思想”の代表的存在であり、近年ではキリスト教への回帰や保守思想との親和性にも注目が集まっている。

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日本における宗教との向き合い方

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