半世紀前、無名の一人から始まった「希望」──世界に広がる、ヤクルトレディの健康を守る活動

9月15日の「敬老の日」、皆さんはこの日をどのように過ごしましたか?
「多年にわたり社会に貢献してきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と定められ、1965年の厚生省社会局長通知では「老人の福祉についての関心と理解を深め、老人自らの生活の向上に努める意欲を高める日」と記されています。
そもそも「敬老の日」の起源は、1947、48年ごろ、一部の市町村が始めた「としよりの日」の行事を、1951年に全国社会福祉協議会が国民的行事としたことが発祥(同通知より)だそうです。
その後、国民の祝日にしようという世論が高まり、「敬老の日」になりました。つまり、地方で行われていた事業が全国に知られて広まり、国民の祝日である「敬老の日」として制定された、ボトムアップの歴史がありました。
今から半世紀以上も前、同様に地方から全国へとボトムアップで高齢者支援を始めた企業があります。
乳製品乳酸菌飲料「ヤクルト」で知られ、今年2025年に創業90年を迎えた株式会社ヤクルト本社(成田裕社長、東京都港区)と、全国のヤクルト販売会社です。
「人も地球も健康に」をコーポレートスローガンにした同社とグループ企業は、今年も敬老の日に合わせ、ヤクルトレディが各地で愛の訪問活動「敬老の日プレゼント」を実施。お年寄りへ、お花を模したミニタオルにメッセージカードを添えてプレゼントしました。
「愛の訪問活動」の起源は、福島県郡山市で同県中通りの郡山市以南の広い地域を管轄として「ヤクルト」の販売・お届けを手掛ける郡山ヤクルト販売株式会社(中原雅夫社長、郡山市安積)にありました。
同社を訪ね、石塚健一専務と小針一民常務に詳しくお話を伺いました。

きっかけは、「褒めてあげてください」という匿名の手紙
発端は突然の出来事でした。
1970年代初頭、会社に匿名の差出人からの1枚のはがきが届きました。
そのはがきには、「独り暮らしのおばあちゃんに、ヤクルト販売店さん(ヤクルトレディ)が自費で「ヤクルト」を届けてくれて、気にかけてくれています。ぜひ、この方を褒めてあげてください」という内容でした。
このはがきを読んだ同社の幹部らは「そんな素晴らしいことをしている人がいるのか」と、すぐに社内に呼び掛けて、その人を探しました。しかし、自ら「私です」と名乗りを上げるような人は現れませんでした。
ちなみに当時は、女性(主婦)が外で働く機会が少なかった時代でしたが、ヤクルトは、地域で暮らす女性たちが地域の住民に「ヤクルト」を届けるという「ヤクルト独自の婦人販売店システム」を1963年から導入しました。
郡山ヤクルト販売では約300人以上の「婦人販売店」(以下、ヤクルトレディという)さんがいたそうです。
大人数の中からその人を探し出すのには時間がかかったそうですが、最後は突き止めることができました。
その人は、お届けの合間に気にかかる高齢者宅、特に独り暮らしのお年寄りのところに回って声を掛けたり、地域の人たちに気を配っていたヤクルトレディでした。きっかけは、ある時、自分が担当する販売エリアの中で、独り暮らしの高齢女性が誰にも看取られずに亡くなった、今でいう孤独死をするという出来事が起きたことでした。
その人は、その出来事にとても心を痛め、独り暮らしの高齢者の家に自費で「ヤクルト」をお届けするようになりました。
実はこの時のいきさつについて、詳細な記録は残されていないそうです。
──いつだったのか、はがきを出した人は誰で、そしてヤクルトレディは誰だったのか?
自ら名乗り出ることのない伝説のような物語ながらも、その出来事は同社の人々の心の中に深く残りました。
石塚専務によると「今残っている話ですと、その方は『独り暮らしのお年寄りを見ると、自分の母親のようで心配でした。それで自費で配っていたんです』と、特段すごいことをしているというようでもなく淡々と話していたのだそうです」。
その言葉も、関係者の中に刻みこまれたのです。
一人の女性の行動に、同社の幹部らも感動し、そして会社として安全で安心できる社会づくりに乗り出します。
「独り暮らしのお年寄りが孤独に亡くなることを減らしたい」と、このヤクルトレディの活動を高く評価し、会社を挙げての活動へと育てていく決断をしました。
同社では、ヤクルトレディの一人ひとりから、独り暮らしの高齢者や、見守りが必要な高齢者の情報を聞いて、見守りを続ける必要があると判断した高齢者のお宅へ「ヤクルト」をお届けする取り組みを始めました。
会社として補助制度を設け、無償でのお届けを独自に開始しました。
するとその後、個人から個人へ、地域から地域へ、さらに自治体から自治体へとこの活動が知られることになりました。
さらに、高齢者の見守りをしている民生委員などから「高齢者の中に、『無償でお届けを受けている人の他にも、見守りが必要な高齢者はいるのでは』『自治体が関わって、高齢者へのお届けをやってほしい』などの要望があるので、なんとかご協力をいただけませんか」と自治体に意見が寄せられるように。
そうした住民の声を受けた自治体の中から「独り暮らしの高齢者を対象に、週1〜2回でもお届けと見守りをお願いできませんか」と、同社に制度的な見守り事業として依頼するところも現れました。
郡山から県南へ——田村、石川、岩瀬、西郷村まで。
市町村合併も経ながら、委託や協定の形で、見守りの輪は福島県の中通り南部一帯の同社のお届け管内へと広がっていきました。
現在は行政側の見守り事業の連携先の多様化(郵便局など)により、契約が整理されつつありますが、泉崎村などではヤクルトレディが直接訪問する形がなお続いています。同社が商品を提供して、お届けと見守りは民生委員が担うという方式もあるそうです。
毎日のお届けからわかる異変——自転車時代が育んだ地域の目
この活動が育った背景には、定期購入者の家々を「当時、毎日訪問して届けるという販売・配達方式」(同社)が大きかったそうです。
毎日、地域の女性たち、母親たちが、徒歩や自転車で一軒一軒、お客さまのお宅へお届けします。
その目線の先には、車のスピードでは見えない路地の変化、地域の人々の暮らしの変化、子どもたちの様子など、目に触れる日常がありました。毎日見ているから、わずかな変化にも気づけます。奥から声が聞こえない高齢者の家、近所の人たちの表情の陰り、近所で会話される不安や心配といった、大きなニュースにはならない日常の変化に敏感に気づくことができました。
販売の起点が「自宅の近隣」だったことも大きかったのではないかと思えます。
そこで起きる様々な出来事、例えば高齢者の孤独死の問題も、重大な我が事として受け止められ、何とかしたいと取り組んだ女性たちの想いと行動が、多くの人々の共感を得たのです。
実は石塚専務も20代の頃、高齢者の見守りで無償にてお届けをした経験があるそうです。
ヤクルトレディが病気や急用でお届けできなくなった時、社員の石塚さんが代わりにお届けに回りました。
「対象となった独り暮らしのお年寄りの方と話し込むような会話力はなかったのですが、お宅を回るごとにお声掛けをして、お元気な様子を確認できるとホッとしたものです」。そして「ヤクルトレディは毎日、自転車で同じ家々を回っていたから、地域のことが自然と見えてくるんだなあ」と実感したそうです。
実際この活動を始めてみると、お声掛けをしても家の中から返事がなく、具合が悪くなったお年寄りが発見され、早期治療につなげることができた事例もあったそうです。
当時、石塚専務も朝の挨拶や短い声かけを欠かさないようにし、「声がしない……どうしたのかな?」と胸騒ぎがすると、すぐ確認を取りました。息子の家に一時滞在していることがわかってホッと安堵したこともありました。
現在は、車でのお届けが主流となり、1人あたりのお届けエリアが広がったことから、ヤクルトレディの数は約250人となりました。それでも現場への伝達は変わりません。
「独り暮らしの高齢者を見かけたら、できる範囲で声をかけてくださいね」。
1972年に一人のヤクルトレディから始まった精神は現在も息づいています。「定期的に誰かが来てくれる」「見守りの目がある」…その事実こそが、温かな地域を作り、高齢者の安心材料になっているのです。
「仕事であり、ケアである」。そんな同社やヤクルトレディたちの矜持が、全国に広がっているのです。
今、郡山ヤクルト販売の本社ビル前には、「ふれあいの像」が建っています。この名称は社員公募で決まりました。

小針常務は言います。
「女性の優しさ、思いやり、真心、愛の象徴です」。
匿名のはがきで初めて知らされた一人のヤクルトレディの善意の行動は、地域に刻まれる記念碑として、現在も遺されています。この像に込められたものは、無名の善意であり、誰もが心の中に持っているふれあいや優しさの循環です。
「郡山ヤクルトを発祥」として、全国に活動が広まったことは、現場の皆さんにとっても誇りになっています。

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“愛の訪問”が全国活動に


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