「怖いまち」を「希望のまち」へ変えていくーー北九州から始まる壮大な希望のプロジェクト(上)
「ホームレス」とは、“家”だけでなく、“関係”も失われた状態

NPO法人抱樸の歩みは、ホームレス支援から始まりました。
代表の奥田知志さんは、大学時代に大阪・釜ヶ崎で路上生活者の支援活動に携わったのをきっかけに、牧師となって北九州市に拠点を移したのち、1988年からはじまった支援活動に参加し、駅周辺や公園などで野宿をしている人たちのもとへ足を運び、食事や物資を届けたり、炊き出しをするなどの地道な支援を続けてきました。
現代の日本社会では、単身世帯が全体の4割に迫り、少子高齢化とともに「孤独死」や「孤立死」が社会問題となっています。ホームレスの人の中には、家族との縁が切れ、身寄りのない人も少なくありません。しかし、そうした現実に対して、「自己責任だ」と冷ややかな視線を向ける社会が、いまだに存在しています。
奥田さんは言います。
「“自己責任”を言うのは、“支援したくない”から。『自己責任を言う自分たちの社会は、それでいいのか?』と、社会のあり方そのものを問わなければいけない」。
支援を重ねる中で、奥田さんはひとつの大きな気づきを得ました。
「“ハウスレス(house-less)”と“ホームレス(home-less)”は違う。ハウスレスは、物理的な“家”がない状態。ホームレスとは経済的な困窮に加え、“ホーム”と呼べるような人との関係性も失われている状態。つまり、社会的に孤立させられている状態なんです」。
実は、この視点を教えてくれたのは、あるホームレスの男性でした。1990年、北九州市で中学生がホームレスを襲撃するという事件が発生したことは前述しました。当時、ほかにもブロックを投げつけられる、殴る蹴るなどの暴力事件が相次いでおり、奥田さんは、襲撃の被害に遭ったホームレスの男性から相談を受け、この男性とともに教育委員会に出向き、また、襲撃事件が起きないよう中学校へ申し入れを行いました。
その帰り道、男性がふとこんなことを口にしました。
「よう考えたらな、夜中の1時、2時に出歩いてホームレスを襲う中学生って、家はあっても“帰る場所”がないのではないか?誰からも心配されてないのではないか?俺はホームレスやから、ああいう子の気持ちは、わかる……」。
その言葉に奥田さんはハッとさせられました。ホームレスの男性同様、子どもたちも他者との関係性が極めて希薄で、社会からも学校からも孤立した“ホームレス状態”であることを実感します。

この言葉が、抱樸の支援スタイルの根幹を形作ることになります。
「社会や他者との関係性を失った目の前のこの人を支援する。この人に何が必要か・誰が必要かを真剣に考える。決して見放さず、孤立させず、つながり続ける」。
その思いを出発点に活動は続けられ、「出会いから看取りまで」を支える“人生支援”へ、またその後子どもと家族への支援へと発展していきます。
「希望のまち」は、命を大切にしてつながりを持ちながら、ともに生きる地域社会を具現化していく場所。
ちなみに、「家族機能の社会化」とは、身内の枠にとどまらない家族的な機能を、人と人とのつながりのなかで生み出そうーという壮大なプロジェクトです。
だれもが、そして子どもたちも「助けてと言えるまち」へ
「希望のまち」では、ホームレス支援にとどまらず、子どもとその家族を包括的に支える取り組みも予定されています。たとえば「子ども家族marugoto(まるごと)支援センター」と「放課後等デイサービスセンター」を設置するなどを通じて、子どもたちが安心して過ごせる居場所と、家族に寄り添う支援を展開していきます。

奥田さんは、子どもをめぐる社会の現状に強い危機感を抱いています。
「2024年、日本では527人もの子どもが自ら命を絶ちました(厚生労働省発表)。これは、毎日1人以上の子どもが命を落としている計算になります。さらに問題なのは、2018年の文部科学省の調査で、その約6割が“原因不明”とされていること。つまり、子どもたちは死ぬほどの苦しみを抱えていたのに、その直前に誰にも相談していない。『助けて』と言えないまま、命を終えているという事実です」。
奥田さんは、そこに現代の大人社会の姿が映し出されていると語ります。
「大人たちは“他人に迷惑をかけてはいけない”、“それは自己責任だ”と、子どもたちに無言のプレッシャーを与えてきました。だからこそ、『希望のまち』では、“助けて”と言え、また“助けて”と言われるまちを目指します。困ったときに声を上げられること、そして誰かに“助けて”と言えること。それは、自分を大切にする気持ちとともに、助けてと言われることで“自分は必要とされている”という自尊感情を育む土台になると考えています」。

抱樸では現在も、放課後の学習支援や家庭への訪問支援など、子どもと家族への支援を継続しています。この活動を担う常務の山田耕司さんは、支援の背景にある一つのデータを挙げます。
「中高年ホームレスの約5割が、中卒または高校中退者だった、という調査結果がありました。いまや日本の高校進学率は97%。多くの職場で“高卒”が学歴の最低条件になっているなかで、ホームレスの人に中退者が多いのはなぜか?
障がいや経済的な困難、生育環境の課題などを抱え、大人になった人も多い。そう考えると、子どもの頃から適切な支援があれば、しなくてもいい苦労もあったのではないか——そう考えるようになりました」。
また、リーマンショック後の北九州では、40歳以下のホームレスが増加。就職しても仕事を続けられず、孤立し、貧困に陥る若者が目立つようになりました。
「路上生活者は“見える”から支援できます。でも実は、生活に困窮しているけれど“見えない”子どもや若者、そしてその家族も多くいます。リーマンショックを機に、そうした“不可視の困窮者”の存在が、ようやく社会に意識されるようになったと思います」。

その思いを語る奥田さん
2011年、抱樸は厚労省のモデル事業として若者の就労支援を開始しました。
“働くことでスキルや人間関係が生まれてほしい”と支援する山田さんたちは、こんな現実にも直面しました。
「『何のために働くの?どうせ一人で生きていくなら生活保護でいいじゃん』——そんなふうに語る若者もいました。つながりも希望も持てないなかで、生きる意味を見失っていたのです」。
けれども、その一方で、支援をするなか若者が持つ大きな可能性にも出会ったといいます。たとえば、高校を中退した17歳の男性。最初に出会ったときは、うつむいてヘッドホンをつけ、言葉も交わせないような様子でした。しかし支援事業を通じて山田さんたちと交流するうちに、表情が明るくなり、会話もできるように。ついにはアルバイトを始めるまでに成長しました。
「つくづく思ったんです。彼は高1の夏休みに高校を辞めて、その1年後に就労支援に出会った。もし、あの時に彼のそばに彼と関わり支える大人たちがいたら、高校を辞めなくてもよかったのではないか、と。若者の可能性を信じて、早い段階から支援につなげること。それこそが“希望のまち”が果たすべき役割だと、あらためて実感しました」。
だれもが、そして子どもたちも「助けて」といえること。さらに大人たちがそのSOSをしっかりキャッチして支援に駆け付けるーー。そんな場や関係性を実現するために、「希望のまち」は動き出しています。
「鏡のない困窮者」へのアプローチ。子どもと家族、まるごと支援

黒田征太郎さんと地域の子どもたちが描いて下さった壁一面の楽しい看板で彩られていました(提供:NPO法人抱樸)
子どもや家族への支援には、ある大きな課題があります。それは、「助けて」と言えない人が多いというだけでなく、自分が困窮していることにすら気づいていない人がいる、ということです。
山田さんは、こう語ります。
「自分の髪の寝ぐせは、鏡を見れば気づける。でも鏡がなければ、気づけない。困窮している人や孤立している人には、“他者との違い”を映す鏡がないんです。だから、自分が助けを必要としていることにも気づけず、相談にも来られない。では、そんな人たちにどうアプローチすればいいのか?」
困窮は子ども個人の問題にとどまりません。家族全体が抱える構造的な問題であることが多く、子どもだけへの支援では根本的な解決には至らないのです。この課題に向き合い、抱樸はひとつの挑戦を決意しました。
「子どもを対象にした無料の学習塾を開けば、親も相談しやすくなるのではないか?」
市の福祉担当部局と相談のうえ、生活保護世帯で中学3年生のいる家庭に、ケースワーカーを通じてチラシを配布。
こうして2013年10月、区内の生涯学習センターで「水曜トレーニング(通称:水トレ)」がスタートします。

毎週水曜日の夕方5時から7時までの2時間、北九州市立大学の学生ボランティアや職員、支援員など総勢約20名が、子どもたちを支えました。最初の参加者は、中学3年生の男女1人ずつ。そのうちの一人は、病気を理由にいじめを受け、不登校になっていた子でした。「水トレ」が居場所となり、彼は友だちを誘って来るように。
そして、誘われた友だちがまた別の友だちを呼び、不登校や引きこもりの子たちが自然と集まる場所へと育っていきました。
しかし、集団が苦手で水トレの会場に来られない子どももいる点に気づきました。そこで、抱樸は新たに子どもたちの家庭を訪問して勉強を教える「訪問型学習支援」をスタートしました。
「支援員と学生が家を訪問すると、多くの場合、家族も一緒にいます。いろいろなものが散乱した室内、山積みの洗濯物、汚れた食器やペットボトルでいっぱいの台所——。子どもが学生と一緒に勉強している間に、家族と支援員が会話をするようになると、家庭の課題が少しずつ見えてきます。最初は家族との関係性ができていなくても、何度か訪問するうちに『最近どう?』『眠れてる?』と声をかけると、『最近、あまり眠れてなくて……』と。そして心の内を少しずつ語ってくれるようになるんです」。

こうした地道な支援の積み重ねの先に、印象的な出来事がありました。
お母さんと3人の子どもが暮らすある家庭でのこと。訪問当初、家の中は散らかり放題。子どもは押し入れの天袋で寝ており、お母さんはダブルワークで深夜まで働いていました。子どもには夜間徘徊や問題行動も見られました。
この家庭に対し、スタッフやボランティアが8年間関わり続けました。やがて部屋は片付き、畳の上に布団を敷いて眠れるようになり、勉強できる環境も整いました。
やがて子どもたちも成長し、長女は就職が決まりました。奥田さんは「就職祝いに何か贈るよ。欲しいものはある?」と尋ねました。「お金が欲しいというかもしれないな」と想像していた奥田さんの前で、長女はじーっと考えていました。そして、こう答えました。
炊飯器が欲しい
「抱樸のスタッフが関わるまで自炊のできる環境に無い中で育った子が、自分でごはんを炊きたい、料理をしたいと思っている」奥田さんの胸は熱くなりました。
「この子のお母さんも、実は自分の親から掃除の仕方、子どもの世話など何も教わらず、家族旅行の思い出もありませんでした。家族が一緒に暮らすことで経験すべきことを親世代から“相続”していなかったんです。親から“相続”していないから、自分の子どもにも何も手渡せない。では、どうするのか? 私たちは“相続の社会化”に取り組もうと決めたんです。
“社会的相続”とは、周囲の大人たちがその子にかかわって、体験や思い出、優しさや思いやりなど人とのつながりを渡していくーーということ。『希望のまち』はそれができる場、”社会的相続”を実現したいと思っています」と奥田さんは誓うように語りました。
そして山田さんもこう言います。
「何か問題が起きると、『子どもがかわいそう』と言われる。でもすぐに一方で、『親が悪い。それは自己責任の問題だ』と批判が始まる。でもね、親を一方的に批判するのは違う。”社会的相続”が希薄なことが多いから。親も、子どもも、一緒に幸せになっていいんですよ。80歳のホームレスのおじいちゃんだって、幸せになっていい。40歳のお母さんだって、幸せにならないと、ね」。
「希望のまち」は、あなたとともに動き出す

取材を通じて筆者は、奥田さんや山田さん、抱樸のスタッフやボランティア、ホームレスだった方々で現在はボランティアで支援活動に参加している人々など多くの人々の優しい言葉や態度に多く接することができました。
「子どもから高齢者まで誰もが幸せになっていい」という思い、理念。そこから「助けてと言えるまち」「みんなが自分らしく生きられるまち」へ。みんなの願いや熱い思いを乗せて「希望のまち」は動き出しています。
「希望のまちは、小倉北区だけでなく、北九州市全体のイメージを変えるプロジェクトにしたい。そして一つのモデルとなって全国各地に広がっていってほしい。そんな希望を、私は持っているのです」。
その奥田さんの力強い言葉には、未来の希望の姿が現されていました。
抱樸では、「希望のまち」や、「子ども家族marugoto支援」も含めて、全国各地、多くの人々にボランティア活動だけでなく、寄付という形でも協力を呼びかけています。一緒に希望を分かち合いながら「希望のまち」を創り出していくプロジェクトです。
「希望のまち」はあなたとともに歩き出すまち。あなたも参加できるプロジェクトです。
さあ、あなたも「希望のまち」を実現する仲間に加わってみませんか?
(下)に続く