「怖いまち」を「希望のまち」へ変えていく──北九州から始まる壮大な希望のプロジェクト(下)

【HOPEFULなひと】
「HOPIUSの想い」をもとに、人類に希望を見出し、持続可能で愛ある世界を目指して活動している人たちを、取り上げる企画です。
前回、(上)として北九州市を拠点に生活困窮者や社会からの孤立状態にある人々の生活再建を支援する「認定NPO法人 抱樸(ほうぼく)」と、理事長・奥田知志(ともし)さん(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会 牧師)らが取り組む「希望のまちプロジェクト」の内容をお伝えしました。
〉〉〉前回の(上)はこちら
(下)となる今回は、奥田さんがホームレスや生活に困難を抱える人々の支援を40年間も続けることになった「原点」ともいえる体験や思いと、今、現在、抱樸の皆さんがボランティアの方々、そしてホームレスだった方々とともに取り組んでいるHOPEFULな世界を紹介します。
大学時代の大阪・釜ヶ崎でのボランティア体験から
「この世界に神ぐらいはいてもいい」と牧師に
奥田さんは1963年、滋賀県の大津市に生まれました。
祖父は神社の神主で、父は関西電力の関連会社に勤務。教員になろうと第一志望の国立大学を受験しましたが不合格に。そこで「英語の教員資格が取れる」私立の関西学院大学神学部に入学しました。
そんな時、先輩に誘われて初めて、多くの日雇い労働者が集まる大阪・釜ヶ崎でのボランティア活動に参加しました。1982年12月、冬の寒い季節のことでした。
当時の大阪は、その12年前の1970年に開かれた万博開催に伴う「万博景気」はすでに終わり、大規模な建設工事のために全国から集まった大勢の労働者の多くが釜ヶ崎に集まり、その日、その日の仕事を探し、そこで暮らしていました。
そこで大学生の奥田さんが見たのは、かつて万博と日本の高度経済成長を支えた中心となりながら、その後、解雇された多数の労働者が野宿する姿でした。

路上では、約300人から400人の人が毎晩毎晩、服を着たまま、靴を履いたままで、シートの上に布団を敷いて寝ていました。しかも1枚の布団を2人で分け合いながら……。本来なら、夜の睡眠時間は、人間が最も安心して心と体を休め、明日の活力を充電するべき時。
それが、暗闇と寒さ、周囲の不安定な環境などに終夜、危機感と緊張感を抱きながら、熟睡できずに横たわっているー。
「本当に衝撃でしたよ。それまで、『日本社会は、豊かで安全で平等で、信頼に足る社会だ』と思っていました。ところが実際には、日本の豊かさを支えた人々が生きることすら難しい状態に置かれていたのです。
当時、釜ヶ崎では行路病死(飢えや寒さ、病気のために路上で亡くなる)人がほぼ毎日のようにいて、年間では市内で200人以上に上っていたと思います。ところがそのことはメディアでは一切報道されません。アルコール依存症の人も多く、生活保護もほとんど取れず、路上で人が死んでいくという現実があるのに、です。
『ここでは人が亡くなることが他人事のように扱われている。この人も自分も同じ命なのに、その命が軽んじられている』と」。
それから奥田さんは、社会と世界を見る目を激変させるような出来事を次々に体験することになります。
丸一日、建設現場で働いて現金で賃金を受け取った「おっちゃん」たちの少なくない人が、その夜は飲み屋に行き、夜は路上で酔ったままで寝てしまいます。すると、そのおっちゃんたちを狙って襲い金を奪う「しのぎ」(路上強盗)が頻繁に起きました。
ある冬の寒い日、雨が降って路上生活者の衣服に冷たい雨が染み込んでいく過酷な夜、「人が倒れている」と連絡を受けて奥田さんは大学の先輩とともに駆け付けました。
公園に行くと、大きな水たまりに、突っ伏したように一人の高齢のおっちゃんが倒れていました。救助の経験が豊富な先輩たちは、それを見るとためらいなくおっちゃんを水たまりから引き上げました。おっちゃんは寒さで手足がかじかんで固まったまま、生気も失われ、塊(かたまり)のようになっていました。
奥田さんたちは「大丈夫、大丈夫」と声を掛けて励まし、リヤカーにそのおっちゃんを乗せると、ハンドルを握って急いで温かい場所へ爆走しました。屋内で体を温めてあげながら、濡れて凍ったようになった衣類を脱がせ、寒さで固まった体を乾いたタオルで拭き、糞尿で汚れた尻も洗いました。
人々の息や汗、炊き出しと酒の匂いが混じり合い漂うような当時の釜ヶ崎。
生と死とが交錯するような出来事は1度や2度ではなく、幾度も、幾度もありました。奥田さんたち大学生が救助で駆け付けた時には、すでに亡くなっている人もいました。あのおっちゃんは助けることができたけれど、あのおっちゃんは助けられなかったー。
そのおっちゃんたちは、本名が何で、どこから来たのか、これまでどんな人生を送ってきたのかー。釜ヶ崎では、お互いが「誰か」を何も知らず、語らなくてもよく、ただ日雇い労働者としてともに働き、寝泊まりする世界。
ひとり、ここにもひとり、生身の人間が確かに釜ヶ崎で生きている、それだけで十分な世界。
「一部の豊かな人たちの生活を支えてきたおっちゃんたちの命や健康がないがしろにされている。しかもこのおっちゃんたちが支えて実現してきた社会の豊かさの中、私立大学の学費も親に出してもらって大学生をやっている僕がいる。これはまずいことだ、と思いましたね」と奥田さんは当時の思いを振り返ります。

そして奥田さんは、釜ヶ崎の他のおっちゃんたちとともに、経験として、またアルバイトのため時々日雇い労働者として仕事に出たこともありました。
初めて働いた日、他の男性たちが日給6千円から8千円なのに対して、奥田さんは4千円でした。それを見た、あるベテラン日雇いのおっちゃんが奥田さんに声を掛けてきました。
「にいちゃん、『足元を見る』って言うやろ。本当にあいつら(雇用側)は足元を見てるんや。にいちゃんが履いてる靴は現場仕事をする奴の靴やあらへん。鉄骨やら柱やらが足に落ちたら一生歩けんぞ。現場では自分で自分を守る、それが鉄則や。あの角の店に行って、一番安いのでええから、安全靴を買うて来い。一番安いのでええからな、すぐに買うて来い」。
危険と隣り合わせの仕事であることを奥田さんは痛感するとともに、奥田さんのけがを心配して的確なアドバイスをしてくれたことにじわじわと感謝が湧いてきました。翌日、店で買った安全靴を履いていくと、奥田さんの日給は倍に跳ね上がったのです。
ある日、奥田さんは土木工事現場で、排水路の角に集水桝(ます)を作る作業を任されたことがありました。四方の角がなく先が尖ったスコップ(=現場では「丸スコ」と呼ぶ)、角が四角で先が平らになったスコップ(「角スコ」)の違いも分からない奥田さんは、なかなか桝を切ることができません。
するとベテランの日雇いの男性が来て、「アホかお前、何やってるんだ!どけ!こうやるんだ」と鮮やかに桝を作ってみせました。仕事終わり、その男性は「にいちゃん、いこか」と飲みに誘ってくれ、どうやって桝を切るか、仕事道具をどうやって扱うかなどをとうとうと語ってくれました。
「おじさん、仕事師、ですね」と奥田さんが言うと、男性は満面の笑みに。その日、汗を流して稼いだおっちゃんのなけなしの賃金は二人の酒代で消えてしまったのでした。
釜ヶ崎にはむき出しの人間の生活と命、まさに「人生の息づかい」がありました。仕事、金、生きること、死ぬこと……。
日々、失われる命がある現状で、野宿生活をする人のための支援は明らかに不足しています。
さらに問題なのは、「『困窮状態になった原因も、そして脱出する努力をしないのも、その人に原因がある。特異な人で起きていることだ』というような『自己責任論』がまん延して、困っている人が『助けて』と言えない状況を生み出していた」と奥田さん。
仕事師として危険作業も難なくこなし、しかし1日の賃金を数時間で使い切ってしまう。親切で思いやりのあるアドバイス、でも素性も明かさず、時には嘘もつく。人間のすごさ、面白さ、不思議さ、理不尽さ、愉快さ……。
「私のキリスト教の考えにも精通しますが、人間はみな、罪びとなんです。しかも神に赦された罪びと。おっちゃんたちも自分も、そのままでいいんだ、と許された罪びと。だから、せめて、この世に、罪びとである人間を赦す神ぐらいは存在してもいいんじゃないか、と思ったんです」。
そして大学3年生の時、奥田さんは牧師になることを決意します。若き奥田さんが踏み出していった人生のその道は、もしかするとあのおっちゃんたちに導かれた道だったのかもしれません。
福岡市の教会を経て北九州市の東八幡キリスト教会の牧師となった奥田さんは、北九州市でも、ホームレスの人たちに配るおにぎりを入れた保温バッグを持ち、小倉駅周辺を中心に夜の街へ出ていきます。
1988年、NPO法人抱樸の前身となる「北九州越冬実行委員会」がスタートしたのです。

夜になると、橋のたもとや歩道の脇にホームレスの人たちの姿が=北九州市小倉区
光と影に包まれた教会

「ちょっと、見てみませんか?」。
奥田さんがそう言って案内してくれたのは牧師を務める東八幡教会の礼拝堂でした。天井から下へ伸びる照明の光は、奥田さんの頭上で放射線状の筋となってキラキラ輝いています。まるで光の教会です。
でも意外な視点から、奥田さんは話しました。「影も美しい、でしょう?」。
礼拝堂の壁や天井は重厚な暗闇をつくり、その隙間から筋のように外の光が差し込んでいます。光と影が交錯するその場は、建物を超えて、希望や祈りが広がる空間のように感じられました。
さらに奥田さんは、前方左にあるドアの内側へ招き入れてくれました。そこにあったのは、納骨堂でした。
棚の上に地域の信者の写真の他、ホームレスだった方々の写真が並びます。棚の中だけでなく、床下には多数の遺骨が収められる大きな骨壺がありました。
蓋を開け、「この間まで、ここにたくさんの方々のお骨が入っていました。今、骨を小さく砕いて入れ直す作業をしていて、午前中もその作業をしていました」と、奥田さん。納骨堂から礼拝堂に戻ると、壁の影の間から、白や青の光がキラキラと、先ほどよりも強く差し込んでいて、多くの人々の祈りが光となって空へ昇っていくように見えました。
ホームレスの人たち自身による「なかまの会」誕生
2002年11月、「人は、一人でいてはいけない。仲間が必要」という考えから、野宿経験のある人たちやボランティア35人によるグループ「なかまの会」が生まれました。
ホームレスを経て地域で自立した後でも、孤立状態にあったり、高齢になり誰が看取ってくれるのか不安だったり、そんな人々がつながりを求めて集まりました。2014年に「互助会」が誕生。
「なかまの会」からの2人を含む運営委員会を中心に、野宿経験など当事者経験のある「世話人」により、見守り活動などが続けられています。

「友人や家族がいないことで孤立し、孤独の中にいるーそれならば地域が、仲間が家族になろう。なかまの会や互助会が、家族として体験する日常の数々の出来事を一緒にやっていこう。何気ない日常をともにしているから変化にも気づけるし、出会いから看取りまで、家族のようにたくさんの体験や思い出を共有できる」と奥田さん。
そこには、支援を必要とする人と密接にかかわって、一人ひとりの命を大切に、誰もひとりで死なせない「伴走型支援」の姿がありました。
互助会の活動は盛りだくさんです。
抱樸館北九州は、ホームレスの方々の自立支援、日常生活支援付き住宅、デイサービスセンター、就労訓練活動など複数の機能を備えた施設。そこでは、毎週水曜日に開催される「なごみカフェ」で将棋などのレクリエーションも行います。
毎月の誕生日会やプチバザー、長寿を祝う企画、会員が入院したらお見舞い金を出し、年中行事としてはバスハイクや「春の野外交流会」、新年会、そして「偲(しの)ぶ会」があります。
世話人さんによる、様子伺いを兼ねた毎月の「互助会レター」配布訪問、独居者への電話かけも重要です。

右奥がカラオケのステージ、それを食事を囲みつつ皆さんが見守っています
そして大切にしているのが「互助会葬」です。
互助会葬は、互助会の会員でお見送りをする葬儀で、偲ぶ会はこれまでに亡くなった人への思いを分かち合う場。亡くなった人の写真を飾り、親しかった互助会のなかまたちが思い出を語り、心を込めて花を供え、冥福を祈ります。

ここに、1枚の写真があります。ある男性が亡くなり、荼毘(だび)に付されたあとの写真です。男性の写真を持つ人、ご遺骨を持つ人、奥田さんの姿もあります。
家族写真のように見えますが、実はここに写っている全員が他人です。しかし、仲間として友人として家族に時間と喜怒哀楽を共有した人々です。亡き男性の遺骨は、あの光と影に包まれた東八幡教会へと納められました。

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笑顔の交流会と、命を守る夜のパトロール
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